最後の手段-将軍家に直訴-を決意した惣五郎は公津村に戻り、家族に後難が及ばないように妻を離縁し、幼い四人の子供たちを勘当した。屋敷内にある椿井で妻子との別れの水盃を交わしたという。
承応元年(1652)十二月二十日、上野東叡山寛永寺。四代将軍家綱一行が家光公の墓参のおり、惣五郎は直訴状を差し出した。それは側近保科正之の手に納められた。
直訴は成功し、その後三年間は農税が免除され、さらに諸税の軽減が行われた。
しかしお縄となった惣五郎は勘当が認められなかった四人の子供たちと共に、承応二年(1653)八月三日公津ヶ原刑場で処刑された。惣五郎四十二才、彦七十一才、ホウ九才、トク六才、トヂ三才であった。
刑場跡には宗吾塚が築かれ、その後宗吾霊堂が建立された。