佐倉藩主代々の厚い崇敬を得て、惣五郎は「義民」として人々の間にその名が広まった。
江戸中期、宝暦年間(1751‐1764)に成立した「地蔵堂通夜物語」を基とした瀬川如皐作の歌舞伎「東山桜荘子」が嘉永4年(1851)に江戸中村座で上演された。人々の心に強い衝撃を与えた芝居は大変な人気を博し、現代に至っても歌舞伎、講談などで演じられている。
義民惣五郎は農民一揆や訴訟問題などで農民の心の支えとなっていった。人々は惣五郎を農民の神様と崇め、一揆を勝ち取ったという。
福沢諭吉は「学問のすゝめ」の文中で“世界に対して恥じることなかる可き者は古来一名佐倉宗五郎あるのみ”と記している。
惣五郎父子の墓は鳴鍾山東勝寺宗吾霊堂の境内にある。この他に宗吾神社、宗吾堂などが国内に多く存在しており、今もなお義民木内惣五郎は神として人々に信仰されている。
数え唄
昔からお手玉遊びの数え唄にも惣五郎の名がある。
一番初めは一の宮
二また日光東照宮
三また佐倉の宗吾郎
四また信濃の善光寺
五つは出雲の大社
六つは村々鎮守様
七つは成田のお不動山
八つは八幡の八幡宮
九つここらは弘法宗
十でとうとう心願ぢゃ